ART WORKS & EXHIBITION

Theo Angelopoulosの「こうのとり、たちずさんで」のラストの荒涼としたどこまでも続いている電柱を連なって登って行く人人人。そして「永遠と一日」のエンドレスに周回するバス。Bernardo Bertolucciの「The Sheltering Sky」で砂漠の中に現れる活気あふれる城壁にかこまれた街。Talal Derkiの「それでも僕は帰る」のシリアの内戦で破壊された砂と埃のなかに生き続ける街。
そのような紛争であったり自然であったりコントロールのできない時に流れ漂う空気感を描きたい。
 

シリアの砂の上に横たわる浮花
Floating lying flower over
the slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる浮花
Floating lying flower over
the slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる浮花
Floating lying flower over
the slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる砂塵
Dust floating on the
slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる浮花
Floating lying flower over
the slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる砂塵
Dust floating on the
slightly above Syrian sand

浮花
Floating lying flower over
the slightly above the ...

浮花
Floating lying flower over
the slightly above the ...

浮花
Floating lying flower over
the slightly above the ...

浮人帯
the slightly above the ...
Obi

浮人帯
the slightly above the ...
Obi

浮人帯
the slightly above the ...
Obi

シリアの砂の上に横たわる砂塵
Dust floating on the
slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる砂塵
Dust floating on the
slightly above Syrian sand

シリアの砂の上に横たわる砂塵
Dust floating on the
slightly above Syrian sand

ARCHITECTURE

日本の伝統工芸の繊細で美しいディテールを生かしつつ、時を経たヴィンテージウッドの味わいをRe-MIXしたデザインディレクションを具現化します。
 

上海の茶室

上海の茶室(水盤庭)

上海の茶室

JRunway ( Singapore )

HRZ TOKYO

GALERIE DE POP


DESIGN DIRECTION

CRM、シナリオをベースにしつつ、Cool JAPAN カルチャーを取り入れたデザイン。
 

Levi's

Aquascutum

Four Seasons Hotel

FILA

FILA

WHO'S A YELLOW RUBY?


ABOUT TORU KAJIOKA

Profile

TORU KAJIOKA 梶岡亨
 
 
https://www.facebook.com/toru.kajioka
http://torukajioka.com/
http://duuz.net/
tk@torukajioka.com
 


exhibition
 
1984 Lunami Gallery / GINZA TOKYO JPN
 
1985 Lunami Gallery / GINZA TOKYO JPN
 
1992 Waithera / FUKUOKA JPN
 
1996 303 EBISU studio / EBISU TOKYO JPN
 
1997 YELLOW RUBY / OMOTESANDO TOKYO JPN
 
1997 303 EBISU studio / EBISU TOKYO JPN
 
1998 YELLOW RUBY / OMOTESANDO TOKYO JPN
 
1999 L’habilleur Gallery / PARIS FRA
 
2000 Iwataya department store / FUKUOKA JPN
 
2014 TOKYO PAN GALLERY / SHANG-HAI CN
 
2015 NANFANG BOOKSTORE GALLERY / SHAOXING CN
 
2015 Tanio Art Museum / FUKUOKA JPN
 
2015 Too Art Gallery / Xi'an CN
 
2015 TOKYO PAN GALLERY / SHANG-HAI CN
 
2015 LOHAS EXHIBITION / SHANG-HAI CN
 
2015 22 GALLERY / SHANG-HAI CN
 
2016 22 GALLERY / SHANG-HAI CN
 
2017 22 GALLERY / SHANG-HAI CN
 
2017 3331 GALLERY / TOKYO
 
2018 22 GALLERY / SHANG-HAI CN ( with 保科豊巳 Toyomi Hoshina )
 
 
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web, iOS & ad design
JFW 1st - 3rd(Tokyo collection)Fashion Week -(web design)
FILA -(web & ad design)
Rosebud  -(web design)
TAKA-Q -(web design)
Richo株式会社 -(iOS design)
KOSE株式会社 -(iOS design)
LEVI'S GIRL -(web design)
Apparel-web.com -(web design)
Textile-net -(web design)
Chen Min -(web & ad design)
Kid Blue -(web design)
GHIBLE(STUDIO GHIBLI Fashion) -(web design)
紅星美凱龍家居集團股份有限公司( Red Star Macalline Group Corporation Limited ) - ( package design )
 
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Store design
BIGI(1997 - 2000)
FILA(1998 - 2000)
Kohsuke Tsumura by Issei Miyake(2000 - 2001)
(WHO’S A)YELLOW RUBY?(1995 - 2002)
Lucien Shanghai 久光百貨(2004)
JRunway Singapore(2012)
OSEWAYA(HARAJUKU shop & Showroom 2013)
OSEWAYA Singapore(2014)
茶室 縁庵 / SHANG-HAI CN(2017)
 
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Movie design
TORAY(TORAY株式会社)(2013 - 2015)
JRunway Singapore(2012-13)
Apparel-web.com(2013)
OSEWAYA HARAJUKU(2013)
OSEWAYA Singapore(2014)

MEDIA


 

CMディレクター・武蔵野美術大学客員教授

中島信也

 作家と鑑賞者は何をもってつながるのだろうか。僕と梶岡亨とは何をもってつながるのだろうか。

 梶岡亨の作品に描かれているのは色と形だけである。その色の微妙なコントロール、繊細に選び抜かれた形によって生みだされた「光」が僕の心を動かす。ここに生みだされた「光」が僕の心の奥底に収納されていた記憶の中の何かを呼び起こす。それは画面に展開している光景に対して「どこかで見た光景だ」と感じるというレベルの事ではない。視覚というものを与えられてから今日に至るまでに僕が出会ってきた無限の瞬間、その無限の瞬間の中のごく一部が心の奥底に収納されている。それはあるいは現実ですらないかもしれない。高熱が出ていた時に見た夢かもしれない。夢でも現実でもない想念が生んだものかもしれない。自分の意思とは全く関係なく心の奥底に収納された「イメージ」。梶岡の作品が生み出す「光」が僕の中のこの「イメージ」に強烈にアクセスするのだ。そしてこの「イメージ」にアクセスする瞬間に僕は僕の人生を瞬間的に体感している。

 この瞬間に僕と梶岡亨とはつながるのである。この色を決め、この形を選び抜いていく梶岡の目、それは梶岡の心の奥底のイメージに向けられている目である。彼の心の奥底のイメージもまた、彼の意思とは関係なく蓄積されていったものであるはずだ。その無意識に蓄積されていく過程、それは現実であれ夢であれ彼の人生そのものであろう。

 つまり梶岡の作品によって生み出される「光」の力で、僕の人生は梶岡の人生と交差するのである。人生と人生が交差して、心が、動くのだ。作品と対峙することによって自分の人生と梶岡の人生が交差する楽しさ。僕にとっての梶岡亨作品の、そこが最大の魅力である。

 

東京都市大学(共通教育部 人文・社会科学系)准教授

岡山理香

白土の闇があけるとき

 

  絵画について。  

  絵画の目的は判然としない。

  もしそれが判然としていたら、 ―たとえば、実際に見た物のイリュージョンを与える  

 とか、または、色彩と模様との特殊な配置によって人の目または精神を楽しませるとかい 

 うことだったら、問題はもっと簡単になり、この目的に合った作品は今日よりも、もっと

 多くなるはずだが、そのかわり説明のできない美しさのある作品はなくなるわけだ。

  つまり、汲んでも汲んでも汲みきれない美しさを持った作品はなくなるわけだ。

    

                                ポール・ヴァレリー

 

 

 梶岡亨のつくりだす作品は、この汲みきれない美しさを持っている。さまざまな画材の組み合わせによって、画家というよりはむしろ絵師のような姿勢で制作された作品群は、観る者に、経験のない懐かしさを感じさせる。そこに身を沈めて、画面とともに呼吸する。あるいは、発光するキャンバスに照らされ、自らに思いを馳せることもできる。

 今回は、正方形と矩形のキャンバスを支持体とし、それぞれを巧みに組み合わせ、有機的な世界を抽象化させた作品群を現出させた。支持体の表面には、彼の思考や経験が抽象化されたものがあらわされている。自然(nature)のみならず、建築や彫刻といった人工的な三次元の現象にもインスピレーションを得て制作されている点にも注目して見てみたいと思う。

 

 

〈正方形〉

 正方形の平面作品は、一見、日本的だが、実際に正方形を支持体として作られた平面は、歴史的にみて日本には少ない。むしろ、西洋近代における、たとえばカジミール・マレーヴィチの「白の上の白の正方形」(1918)、パウル・クレーの「流れの中の六つの漸強音」(1929)、ピート・モンドリアンの「ヴィクトリィ・ブギウギ」(1943−44)などが、支持体であるキャンバスの形体を正方形とした。絵画において、一般的に支持体は矩形であり、正方形は特異な形体である。また、正方形は厳格で拘束的であるので、まず、支持体そのものが表現的な(支持体が主張する)形体となり、作品を成功に導くよりも、失敗に導く度合いが大きい。ここでいう失敗とは、それが作品ではなく工芸品になるということで、ある意味の成功でもあるということは言える。ただ、梶岡の目指すものは、たとえ狩野派の襖絵のような成功であったとしても、工芸品としての成功ではない。

 そこで、正方形が持つ強い中心性や求心性が緩和され、曖昧にされるよう、正方形単独を完全とはせずに2枚一組とする。つまり、正方形の支持体2個一対という形式とした。これは、日本の中世以後の屏風が左右二つを一双とするように、極めて東洋的な形式である。また、屏風の左右に関連する図柄が描かれるように、ここでも2枚は連続している。そして、モンドリアンやマレーヴィチとは違う非構成的な抽象を画面に表している。

 

 梶岡が正方形を選択したのには、もう一つ理由がある。それは、茶の湯である。梶岡がたしなむ茶の湯の世界において正方形は重要な形である。茶の湯を行う茶室の基本は四畳半と言われる。これは、正方形の座敷で広間とも小間ともなる。その原型である四畳半が京都の慈照寺にある。東求堂内の同仁斎である。慈照寺には銀閣があり、屋根は方形、つまり上から見ると正方形である。日本の伝統的な寺院の屋根にしばしばみられる形である。正方形は、そうした日本伝統の建築的な空間をも想起させる。

 また、四畳半より小さい茶室に三畳や二畳というものと、それに台目畳をそえた三畳台目、二畳台目と呼ばれるものがある。台目というのは、一畳よりも小さい畳のことで、矩形の畳に対して、限りなく正方形に近い。梶岡の正方形は、このつつましい台目畳にも見立てられているのである。

 

 アンドレ・ジイドは「制限のないところに美しさはない」といった。8組の作品の支持体に正方形+正方形という制限を与えることで、そこに創出された新たな空間、白土の闇の中から浮かび上がる美を私たちは受け取ることになるだろう。

 

 

〈花と写真〉

 正方形と正方形を組み合わせ、創出された新たな絵画空間。2つの正方形の一方には、花の写真が埋め込まれている。対称的に置かれた2つの支持体に非対称性をもたらすのは、この花だ。花のないキャンバスは、有機的な世界を抽象へと変換する法則によって、見えるものに隠されている見えないものの震えを表現している。もう片方のパラレルワールドでもあり、背景ではないのだ。

 花というものは、眼差しにとって特権的な対象である。わかりやすい存在でありながら特異な、しかも完璧な形をしている。それゆえ、シルエットであろうともそれが花だということを認識できる。

 円山応挙の「藤花図屏風」(1776年)で描かれる大きく曲がりねじれる藤の幹や蔓。蔓から下がって咲く藤の花房の描写は丁寧な筆さばきによって写生的に描写されている。樹形や花房が屏風の余白を活性化し、背景の総金地にイリュージョンとしての奥行きを創り出している。しかし、これらがたとえシルエットになったとしても画面は成立するであろう。桃山時代に長谷川親子が描いた楓と桜とは違うのである。智積院にある長谷川等伯「楓図襖」、長谷川久蔵「桜図襖」は、描かれた対象物そのものが美しい。

 

 さて、ここに一輪の花がある。名前を知っている。いつ咲くのかもわかっている。ただ、‘この花’そのものについて、私はいったい何を知っているのだろう、と不安になる。さらには、花が「いったい、何が、何のために」これをつくったのだろう、と疑問に思うようになる。花という自然物が二次元に再現される、つまり、画家が意識的に抽出した要素によって描かれているかぎり、その答えを探してしまうだろう。

 梶岡があえて花の写真を使うのは、写真がシャッターを切った瞬間の情報のみを見る者に伝えるからだ。

 美しく輝く絵画という虚構に花の写真という現実を組み込む。その花が画面に溶けゆくように闇が重なり合う。やがて、花は散りゆき枯れ野となる。そうして闇があけてゆく。可視性と不可視性の境界。2枚の正方形の間には、絵巻物のように、花の一生が潜んでいる。

 

 

〈光〉

 正方形の画面の中に、胡粉を使ったような白の表現がある。いくつかのイメージが思い浮かぶ。夜の雪は、漆黒の闇の中で、銀の冷光を思わせる輝きを放ちながら大地に降り積もる。幾層にも重なった白土の圧倒的な存在感。重層する白と白の輝きに眼が眩まされたならば、そこに白土の闇が広がってゆく。ところどころに慎重に落とされた漆。物質そのものとしての漆、つまり樹液としての漆が白土に広がる。あるいは、千年の時を経た樹液が琥珀となって白土の中から滲み出(いで)る。

 西洋絵画において、このような白と黒のような色彩の明暗の対立は、三次元性のイリュージョンのための主要な手段であるが、ここでは、むしろ明と暗は融合され、画面自体が発光しはじめている。それは、若林奮の鉄の彫刻や桂離宮にある数々の飛び石や延段のもつ鈍色の光にも似る。印象主義の画家たちが追求した光(lumiere)の描写ではなく、画面そのものが発光体となっているのだ。ゲルハルト・リヒターの写真に基づいたフォト・ペインティングという作品群も発光している。彼は、絵画は、ほかのどの芸術にもまさって、ひたすら光(shine)に携わっており、作品は、光を発していると語る。

 また、ここには、建築家たちの創造した光と空間のイメージも投影されている。それは、メキシコの建築家ルイス・バラガンの濃い影をともなう光(light)であったり、茶室の中で体感される陽の動きであったりする。

 午前11時あたりから始まる正午の茶事では、小間の中で南から西へと動く日の動きが体感される。夜明けを楽しむ曉の茶事は、清冽な曙光を求め、寒さ厳しい季節に行われる。まだ寒空に星のまたたいている曉七ツ時、午前4時頃から始まる。亭主は、ほとんど徹夜で準備をし、炉の中の火を絶やさないよう埋め火をする。天井の突上げ窓をあげる。茶事が終わる頃、ほの暗い小間に朝日が差し込む。天井より降りそそぐ光。うっすらとした闇の中に朝の光がみちはじめる。人々は、白土の闇に静かに座す。

 

 梶岡は、色彩よりも光によって、何ものかを表現しようとしている。この光に物質的な複雑さを醸し出すためにマチエールを立ち上げた。

 絵画は、視覚にのみ訴える。観る者は、「視覚の高貴さに対する素朴な信仰」を持っている。

しかし、視覚によって捉えられた刺激は、他の諸感覚によっても知覚される。画面に作られたマチエールは、触覚性を呼び起こす。

 

 

〈マチエール〉

 絵画を現実にある物体として捉えると、それぞれ、形、色彩、マチエールを持っている。

マチエール、つまり画面の肌理、あるいは表面の物理的、物質的構造は、西洋近代絵画の中で、印象主義をはじめ多くの画家たちによって、徐々に意識的に扱われるようになった。そして、マチエール自身が造形言語の語彙として表現力を持つようになる。

 光を表すには、色彩というよりは、マチエールなのだ。白は、白色ではなく、白土のように。白雪の降りつもる大地、あるいは陶磁器の土。黒は、黒色でも茶色でもなく、半透明の漆のように。また、鉄釉を漆黒色に仕上げた瀬戸黒のように。茶の湯における「茶碗の美」は、視覚と同時に触覚にも訴えるものである。茶碗は、手にもった感触が大事である。 

 あるいは、スペインの建築家ユニットRCRが使うコールテン鋼の錆のように、即物的で飾り気のないその質感や強度がマチエールとして立ち上げられている。

 

 梶岡の作品群は、離れて見れば視覚的であるが、近づいてみると視覚性は弱まり、さまざまな画材による表面が触覚性を感知させる。より注意深く画面を見ると白い、または赤い細い糸のようなテープが何本も貼り込まれているのに気づく。このテープは、平面を分割している。マーク・ロスコーは、作品に取りかかるときに、色や他のどんな要素よりも寸法(measures)が重要であると語っている。つまり、キャンバスをどのように分割するのか長方形の面積の比率が象徴的意味を持つというのだ。

 さらには、このテープは、キャンバスの二次元に三次元の空間を創り出すための装置でもある。線と面が複雑に絡みあい、立体感と奥行きが生まれる。そして、これを表面に張るという行為は、画家がその作品に文字通り手を加えているしるしであり、同時に物理的につくられている証でもある。

 

 画面におけるあらゆる画材の物質性は、眼のために表されるが、ついに触れたくなるようなマチエールが現われる。触覚をともなって、初めて理解できるかもしれないと思わせるほどにそのマチエールは雄弁である。

 梶岡の作品群は、遠くからみると調和が保たれた端正な佇まいだが、近寄ってみることでマチエールによる直截的な親美性を感得することができるであろう。

 

〈絵画の生命〉

 

  すべての物質は、「生命」の満ちている程度に比例して尊いものとなる。

                               

                                 ジョン・ラスキン

 

 江戸時代に制作された「風神雷神図屏風」における俵屋宗達と尾形光琳の違いは、躍動感であるが、それはすなわち「生命」がいかに満ちているかの違いでもあると言えよう。梶岡の作品にもその「生命」が満ちている。しかしながら、それは抑制的に表現されているので、観る者は心静かに対面できるのである。

 けだし、ここには風神も雷神も描かれてはいない。対象の再現は放棄されているのだが、それにもかかわらず、あきらかに地平線に曉と雷鳴が轟いている。瞬間的な(ephemeral)存在が画面の底にある揺るぎない堅固な構成の中に表象されている。

 光琳の「風神雷神図屏風」が思いのほかこぢんまりとしているのは、「きれい」という強迫観念に捕われてしまったからなのかもしれない。宗達は、そこから遠く離れて、絵画に生命を吹き込んだ。梶岡もそうした強迫観念とは無縁に、キャンバスを床に置き、その筆運びは迅速で闊達で直截的である。

 私たちは、俵屋宗達以来の歴史を知るゆえに梶岡の作品により魅かれる。しかしながら、その歴史を知らずとも、画面に潜在する無限のエネルギーを感受することはできよう。なぜならば、これらが作家の内面的な現実をインスピレーションの主体とし、無意識の源泉から意識的な判断の流れによって、具体物として現されているからである。

 

 芸術の体験は、作家の活動全体から吸収されたすべてを通して必然的に蓄積された無意識を作品へと彫琢する力量を私たちに知らしめ、それに感服させられる。その個人的な体験はやがて共有され、新しい世界がつくられ始める。それは、必ずしも個性的とは限らない。個性とは危ういものでもある。ザオ・ウーキーの希有な作品の中には、パウル・クレーの遺産が受け継がれているのだが、クレーの作品の中には、中国絵画の伝統が反映されている。

 

 

個性(オリジナリテ)以上に尊いものがある、それは世界性(ユニヴェルサリテ)である。

 

                                ポール・ヴァレリー

 

 

 21世紀において、もう一度、私たちが芸術に求めるもの、そして、梶岡が進むべき道に望むものである。白土の闇はあけ、遥かに遠く光が満ち、枯れ野に木々が芽吹きはじめる。

[主要参考文献]

ポール・ヴァレリー『文学論』堀口大學訳 角川書店 1955年

ポール・ヴァレリー『ヴァレリー・セレクション 上下』東宏治・松田浩則訳 平凡社 2005

ジョン・ラスキン『建築の七燈』杉山真紀子訳 鹿島出版会 1997

エリザベス・フランク『ジャクソン・ポロック』石崎浩一郎・谷川薫訳 美術出版社 1989 

藤枝晃雄『新板ジャクソン・ポロック』東信堂 2007

『ザオ・ウーキー展』カタログ 石橋財団ブリヂストン美術館 2004

金沢21世紀美術館、川村記念美術館監修『ゲルハルト・リヒター』淡交社 2005

『批評空間 モダニズムのハード・コア』浅田彰、岡崎乾二郎、松浦寿夫編 太田出版 1995

藤枝晃雄『絵画論の現在』スカイドア 1997

北澤憲昭編『美術のゆくえ、美術史の現在』平凡社 1999

加藤周一『日本文化における時間と空間』岩波書店 2007

小林忠、村重寧、灰野昭郎編『宗達と光琳』講談社 1990

玉蟲敏子『生きつづける光琳』吉川弘文館 2004

神代雄一郎『日本建築の空間』至文堂 1986

 

无限定空间的生命力——品读梶冈亨

潘 力

  梶冈亨是近年来活跃在上海的日本艺术家,他的作品所带来的自由想象,浮现眼际的是狩野派、水墨山水、琳派、抽象表现主义······还有禅宗、物哀和极尽灿烂繁华后脱离尘世的孤独。他的人生经历丰富多彩,学贯古今中西,他的作品才能呈现出如此纷繁而美丽的面貌。梶冈亨幼时在祖父经营的电影院里接触到海报画家,开始对艺术产生兴趣;高中时学习设计,大学专修油画。学生时代结束后,他除了继续绘画,还从事与时尚相关的店面设计。他开设了一家以“黄宝石”命名的精品店,在去欧洲购买黄宝石的过程中,他得以有机会接触处于时代潮流顶峰的艺术与时尚。毋庸置疑,这些经历深刻影响了梶冈亨的艺术。

  翻开日本美术史,不乏熠熠生辉的金银色,强烈的视觉效果符合统治阶级的审美趣味。千年京都历史上的安土桃山时代就被称为“黄金时代”,武士阶层的壮大气度、奢华的审美意识以及对海外世界的认知,使时代精神充溢于每个角落。狩野派画师倾力开创日本金碧障壁画的新画风,构成中蕴含丰沛的能量,是英雄精神的具象化。江户时代形成的琳派以独特的匠意和洗练的色彩,开创了日本极富装饰趣味的绘画体系,将金银在绘画中的运用发挥到了极至并影响至今。现在,梶冈亨保持着平均每个月拜访一次京都的频率,哪怕仅仅只是在京都散步。由此,在他的作品里似乎可以看到京都的气象在画面里无限延展,曾经的繁华盛世幻化进了他的画面。换言之,日本传统文化的精髓是梶冈亨艺术的灵感之源。

  梶冈亨继承并发展了琳派的构图、装饰及古典趣味,将金银作为色彩美和艺术美的壮丽理想。他用金属铁、水晶、大漆、树脂以及矿物颜料等厚重且有质感的综合材料介入画面的自由构成,打破日本“黄金时代”以来金银画面的光滑平面性,材料自身的空间相互交错,使丰富变化的实体空间与画面的错觉空间相结合,形成一种无限延展的丰富视觉效果。这些非水墨材料在表现琳派绘画的金碧辉煌与装饰趣味方面取得了成功,也在一定程度上营造出水墨画与禅宗的意境,表现出一种脱离地面的漂浮感,一种不断变化的不定性,一种远离尘世的非真实。这种全新的视觉空间是由自由的透视学与实体的材料感共同形成的,带着京都熠熠生辉的印记,显示出无限定的空间,连接古都的繁华与现世的浮生。

  正如梶冈亨自己所说的“绘画目的不明确性”,他的画面潜藏的无限能量是内心隐秘灵感的注入。《庄子》曰:“一尺之棰,日取其半,而万世不竭。”讲的是物质无限可分与数学的无穷思想,平面没有面积,可以无限延展,梶冈亨的作品利用有限的平面表现抽象的宇宙,没有大小、宽窄、薄厚之分,又以严密的逻辑为基础,在有限的综合材料物质性中,让材料赋予画面更多绘画的趣味性和神秘感,这种趣味和神秘不仅局限于画面内容,更多来源于材料本身的自然属性,通过画面表象的自然物观照画面内在的无限生命,使精神在混沌中重生。

  在这无限定的抽象空间中,梶冈亨时常突然描绘一株具象如宋代工笔花卉的意向符号,没有出处,来去自如,无根之花脱离尘土,在花叶凋零的枝干上突然绽放,宛如诗佛摩羯在《梵体诗》中所写的“虚空花散聚,烦恼树稀稠”,使得无限定空间中仿佛有了可以通往宇宙的生命结点。此外,采用工笔画中的折枝技法,只见其枝未见其根。“人生无根蒂,飘如陌上尘”。梶冈亨画中的无根之花与折枝则意图表达出一种脱离地面的空气感,为画面更添几分忧伤和禅意。宋代工笔花鸟画是中国花鸟画的高峰,既有皇家富贵,又含草根野逸,而且“道法自然”,写生态自在之意,梶冈亨试图利用这样精妙的形象,在综合材料构筑的层次丰富的奢华混沌世界中揭示生命的真实。

  梶冈亨的作品图像除了花草等自然景色,还有纯粹的抽象画。实际上,较之西方的抽象表现主义画派,他作品的抽象意味充满了东方情调——不仅体现在日本式的绘画技法上,还体现在作品内敛细腻的情感表达上。他的作品使我想到了朱德群和赵无极,这两位中国抽象绘画大师均“将西方的传统色彩与西方抽象画中的自由形态,用中国阴阳和合的精神组合成新的画种”。而梶冈亨的确与赵无极有着千丝万缕的关系,他八岁起师从后者学习绘画。二者作品的共同特点是对光与色的驾驭:在他们的作品中,丰富的色彩在画面上互相协调又抑扬顿挫,不断地移动、交结、展开,又忽隐忽现于可见的世界,本能地表现着东方(无论是中国的还是日本的)的精神与意境。

  日本文化注重以情绪化的直觉感悟来经营作品,追求视觉美感和工艺精致,并在工具材料、制作效果方面不断进行大胆变革,使得装饰性特征进一步强化。日本美术既不是中国古代的,也不是西方现代的,而是符合日本民族自我审美需求的艺术样式,是将日本绘画长年来以“雪月花”为对象、恬适细腻的抒情品格演化为更具生命激情和精神力量的样式,保持着浓郁的东方艺术的诗意化境界和丰富的象征性意味。

  梶冈亨传承和借鉴中日文化精髓,立足于当下消费社会的经验,将传统文化符号打破重组,营造新的情境体验进而引起共鸣。由此可见,他在绘画中使用不同的物质材料,不仅是单纯的技术性问题,而是材料的自然生命力以及由此带来的观念转变等因素的综合体现,由此将自己的全部心灵秘密、意识与潜意识的冲突、真实与虚无的矛盾形象且艺术地揭示出来。

 

" Quotation magazine " interview : 

蜂賀亨 toru hachiga

 

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